【都市伝説・日本史】三日天下の明智光秀 実は生き延びて徳川幕府に仕えていた?
本能寺の変で織田信長を討ち取り、直後、豊臣秀吉によって討伐されたことから三日天下という汚名を残すこととなった明智光秀。
ところが、明智光秀は、実際は死んでおらず、その後、「南光坊天海」と言う名前で、徳川家康の朝廷政治や宗教に関する相談役に就いていたという都市伝説があります。
なぜ、明智光秀が「南光坊天海」だったという都市伝説が生まれたのか?
以下の5つの理由が都市伝説の根拠とされています。
【理由①】
徳川家康が祀られている日光東照宮に明智家の家紋(桔梗の紋)が残されている。
【理由②】
日光に「明智平」という地名があり、南光坊天海が名付け親とされている。
【理由③】
徳川家光の乳母(明智光秀の重臣だった斎藤利三の娘)が江戸城に入った際、南光坊天海に対し「お久しぶりでございます」と挨拶したとされる。
【理由④】
明智光秀の子孫と称する明智滝朗の書「光秀行状記」で明智光秀=南光坊天海と主張している。
【理由⑤】
徳川秀忠(2代将軍)、徳川家光(3代将軍)に明智光秀の名前を使っている
(これはかなり強引ですね)
※諸説あり