【都市伝説・日本史】島原の乱の天草四郎は豊臣秀吉の孫だった?
1637年に長崎県島原で起きた島原の乱の首謀者とされる当時16歳の若さだった天草四郎。実は、豊臣秀吉の孫、豊臣秀頼の息子だったとされる都市伝説があります。
この都市伝説の背景には、豊臣秀吉の次男・豊臣秀頼の生伝説があります。
豊臣秀頼は、1615年、大坂の陣で徳川軍に追い詰められ、母・淀殿と共に自害したとされています。
ところが、秀頼、淀殿の最後を看取った者もなく、死体も残っていないことから、島津氏を頼り薩摩国へ逃げたのでは?という説が浮上しました。
当時の民衆の間で
「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたよ鹿児島へ」
と歌われています。
なぜ、天草四郎は豊臣秀頼の子と言われているのか?
下記の様々な理由の合わせ技から、天草四郎は豊臣秀頼の子では?と言われています。
【理由①】
【理由②】
農民とキリシタンが起こした一揆(3万7,000人)に対し、徳川軍(12万人)と尋常ではない兵を送り、執拗に攻めたことから、徳川軍は天草四郎を絶命させておかなければならない理由があったのでは?と言われています。
【理由③】
ある書物に、天草四郎のことを豊臣秀綱と記載されていたこと。
(これは信憑性の乏しい)
豊臣秀頼、天草四郎、共に非業の死をとげたことから、同情の念を背景に、おやこだったらいいな~という夢も背景に、この都市伝説が生まれたとされています。
※諸説あり