1分でわかる都市伝説ブログ

巷で噂されている都市伝説を考察・まとめたブログです。

【都市伝説・地震】2020年夏に南海トラフ発生?ニュージーランドと日本の大地震の関係とは?

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東京直下型地震南海トラフ地震が起こると言われています。いつ来てもおかしくない日本の大地震ですが、2020年の夏に来るのでは?と囁かれています。

 

囁かれている理由は、ニュージーランドと日本の地震の関係にあります。

ニュージーランドも日本も共に太平洋プレートの境界に位置しており、地震が連動しているのでは?と言われています。

 

そこで、過去の地震を見ながら考えてみたいと思います。

 

ニュージーランドと日本の地震の関係(過去10年)

下記の表からも、ニュージーランド付近で地震が起きると日本で地震が起きていることがわかります。2020年5月にニュージーランド付近で2度地震が発生しています。ということは、

 

2020年6月下旬~7月下旬に日本で大地震が起きる??

 

ニュージーランド

日本

場所

発生日

M

場所

発生日

M

クライストチャーチ付近

2010年9月4日

7.4

小笠原諸島

2010年11月30日

7.1

クライストチャーチ付近

2011年2月21日

6.1

東日本大震災

2011年3月11日

9.0

クライストチャーチ付近

2011年6月13日

6.0

長野県

2011年6月29日

5.4

ケルマディック諸島

2011年7月6日

7.6

三陸

2011年7月10日

7.3

ケルマディック諸島

2011年10月21日

7.4

沖縄北西沖

2011年11月8日

7.0

クライストチャーチ付近

2016年2月14日

5.7

熊本地震

2016年4月14日

2016年4月16日

6,5

7.3

NZ沖

2016年9月2日

7.1

鳥取

2016年10月21日

6.6

クライストチャーチ付近

2016年11月14日

7.8

福島県

2016年11月22日

7.4

ケルマディック諸島

2018年9月10日

7.0

北海道胆振東部

2018年9月6日

6.7

ケルマディック諸島

2019年6月16日

7.4

山形県

2019年6月18日

6.4

NZ含むサンタクルーズ諸島

2020年5月12日

6.6

???

2020年6月下旬?

から

2020年7月下旬?

??

NZ北東沖

2020年5月25日

5.6


■バヌアツの法則

ニュージーランド北部に位置する島々(フィジーなど)付近で地震が起きると時計回りに地震が起きる傾向にあるという法則。

 

南の島で地震発生後、数日~数週間で日本で地震が起こる!

60%~70%の確率

 

この都市伝説は当たってほしくないと願うばかりです。

【都市伝説・海外】80年間、食事を取らずに生きていたインド人「プララド・ジャニ」とは?

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(出典:サプタムインターナショナル

 

プララド・ジャニは、1929年生まれ。インドの洞窟に住み、80年間、食事も水も口に入れず生活していたヒンドゥー教の苦行者でヨガの達人です。

 

一般的に、人は、飲まず食わずは一週間が限界と言われています。日本では、江戸時代まで生きたまま仏・ミイラになる即身仏がありましたが、それでは、1000日でミイラになってしまいます。

 

なぜ、プララド・ジャニは、飲まず食わずの生活を続けているのか?

 

プララド・ジャニが飲まず食わずの生活を始めたのは彼がジャングルに住んでいた10歳の時からとされています。彼の目の前にヒンドゥー教の3人の女神「カーリー」「ラクシュミ」「サラスヴァティ」が現れ、彼の唇を撫でた後、「これでもうあなたは食べ物に困らなくて済む」と言ったそうです。

その後、女神の言う通り、飲まず食わずでも健康に生活できるようになりました。

 

現代医学で真偽を調査!果たして、その結果は?

2003年、インドのスターリング病院で10日間、24時間監視のもと調査しました。プララド・ジャニは公言通り食べ物も水も口にすることなく、健康に過ごしました。さらには排便、排尿もまったくなかったのです。

 

2010年、今度はインド国防省が乗り出し、不老不死の研究のため、前回よりも長い15日間、24時間監視のもと調査しました。結果は前回と同じく、飲まず食わずを続け、排便・排尿もなかったのです。

 

最新の医療機器で体の隅々を検査したそうですが、特に変わったところもなかったため、インドの医療関係者はただただ頭を抱えるしかなかったそうです。

 

プララド・ジャニは、2020年5月26日朝、老衰のため90歳で亡くなりました。

 

※諸説あり

【都市伝説・日本】羽田の大鳥居の呪い?死者・負傷者多数で移設工事中止に?

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この大鳥居は、江戸時代に羽田を水害から守ってもらうために作られた穴守稲荷神社のために建てられたものでした。

 

戦後、GHQにより羽田空港とその一帯は米軍基地として利用されるようになり、施設建設のため、神社と大鳥居が邪魔だったことから移設工事を行うこととなりました。

社殿やその他の鳥居の撤去は終わり、最後に大鳥居を撤去することになったのですが、ロープで倒して破壊する計画となり、米軍兵士が大鳥居に上った瞬間に落下。1名が死亡、2名が重症となりました。その後、再度別の兵士が試みるも、今度はロープが切れて怪我人が続出。3度目の挑戦では、米軍兵士が重機に挟まって死亡。

このように死者やけが人が多発したことから、GHQは日本人に撤去を依頼したのです。ところが、撤去当日になり、作業員たちが謎の高熱に襲われ、作業を中止せざるえを得なくなりました。

 

当時この鳥居は羽田空港の駐車場の真ん中にありましたが、日本に返還後も呪い伝説が噂され、1999年までそのままにされていました。

 

羽田空港の滑走路拡張工事に伴い、どうしても移動しなければならなくなり、今度はちゃんと地元の氏子たちに祈祷してもらい、事故もなく、現在の位置に移動できました。

 

※諸説あり

【都市伝説・日本史】犬の散歩を始めたのは西郷隆盛像だった?その理由は?

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上野恩賜公園に立つ犬を連れた西郷隆盛銅像はあまりにも有名ですが、実は、史実とは異なっていると言われています。

 

西郷隆盛が犬を飼った理由は?

西郷隆盛明治維新後、戦がなくなったことから出番は少なくなり、暇を弄ぶ様になりました。元々甘党だったこともあり、明治維新後はドンドン太っていきました。そこで医者から「このままだと太りすぎで死ぬかも知れないから犬を飼って痩せなさい」と言われ、犬を飼い始めたのです。

 

そこで飼った愛犬「ツン」は、徳川将軍家にいた「お虎」という洋犬でした。その後、多い時には20匹近くの犬を飼ったほどの愛犬家となりました。

 

当時、犬を連れて歩くのは狩の時だけでしたが、医者から毎日歩けと言われたこともあり、毎日犬たちを連れて歩くようになりました。今では当たり前の光景ですが、最初に日本の犬の散歩を始めたのが西郷隆盛と言われています。

 

なぜ、上野恩賜公園銅像は日本犬なのか?

西郷隆盛没後、銅像を立てることになるのですが、西郷隆盛薩摩藩士だったことに加え、現在は絶滅した薩摩独特の犬・薩摩犬を世に知らしめる意味も込めて急遽薩摩犬をモデルに銅像が作られたのです。

 

※諸説あり

【都市伝説・日本史】国宝松江城は若き娘の人柱のおかげで完成した?

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1611年の江戸時代初期、初代松江藩藩主・堀尾吉晴によって築城された国宝松江城。この築城にあたり、悲しい都市伝説が残っています。

 

1607年、松江城の築城が開始されましたが、天守閣の石垣工事で、石垣が崩れる事故が多発。工事がなかなか進まないことから、「人柱を立ててくれ!そうすれば工事がうまくいく!?」と工夫たちから意見が出て、時の藩主堀尾吉晴・忠氏親子は人柱を実行することにしました。

 

松江藩は人柱の人選のために盆踊りを開催。その中で一番美しく、一番踊りが上手な若い娘が人柱という生贄に選ばれました。若き娘は盆踊りの最中に藩士によってさらわれ、事情もわからないまま天守閣の石垣の中に生きたまま埋められてしまいました。

その後、石垣の崩落はなくなり、順調に工事が進み、1611年に松江城は完成することとなります。

 

ところが、人柱実施直後に息子・堀尾忠氏が、そして、松江城完成直後に父・堀尾吉晴が急死。人々は、この急死は娘の無念の祟りの仕業と恐れました。

さらに、盆踊りを開催すると、天守閣から少女のすすり泣く声が聞こえるという怪奇現象が発生し、盆踊りは開催されなくなりました。

その後、恐れをなして天守閣には誰も近づかくなり、1638年の松平直政入場まで、天守閣は放置され、荒れ果てていきました。

 

今でも尚、松江城では、娘の祟りを恐れ、盆踊りを踊っていないそうです。

 

※諸説あり

【都市伝説・日本史】フランシスコ・ザビエルは実はハゲではなかった?

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出典:

フランシスコ・ザビエル - Wikipedia

 

フランシスコ・ザビエルは、日本にキリスト教を広めた宣教師として、この肖像画と共に教科書にも載っている有名人です。

 

なぜ、教科書に載っているフランシスコ・ザビエル肖像画はハゲなのか?

教科書に載っている肖像画は、ザビエル没後80年程たった1619年以降、宣教師が作った学校に持ち込まれた銅版画をもとに、日本人によって制作製作された絵とされています。

 

当時、キリスト教独特の髪型で、「トンスラ」という、頭のてっぺんを剃る髪型がありました。

前述のザビエルの肖像画を制作した日本人は、「キリスト教だからトンスラにしてたんじゃない?」と思い込みで頭を剃った絵にしたそうです。

 

ところが、日本だけでなく海外にもあるザビエルの銅像は、髪の毛がフサフサしています。さらに、イエズス会で紹介されているザビエルの肖像画も髪の毛がフサフサしています。

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イエズス会のザビエル肖像画

 

なぜ、間違った肖像画が教科書に採用されているのか?

いまだ解明されていない謎となっています。

 

※諸説あり

【都市伝説・日本史】みんな大好き「肉じゃが」はビーフシチューの失敗作だった?

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肉じゃが発祥の背景に、東郷平八郎が大きくかかわっています。

東郷平八郎とは、薩摩藩士出身で、日露戦争において連合艦隊を率いて世界屈指の戦力だったロシア帝国海軍バルティック艦隊を一方的に打ち破ったことで一躍有名になった日本海軍のトップだった人物です。

 

東郷平八郎1871年(明治4年)から7年間、イギリスのポーツマスに留学していました。そこで食べたビーフシチューの味が忘れられず、帰国後に艦上食にしようと料理長に作らせました。

 

ところが、ビーフシチューを知らなかった料理長は困り、東郷平八郎から聞いた具材を使い、味付けは(日本の調味料だけで)料理長の感覚で作りました。

もちろん、ビーフシチューにはほど遠いものでしたが、料理を食した東郷平八郎

「なんか違うけど、うまい!」と感想を残し、ここに「肉じゃが」が誕生したとされています。

当時、すでにビーフシチューや、その応用であるハヤシライスが存在していたことから、単純に料理長が知らなかったことが生んだ、偶然の産物とされています。

 

なお、今では、東郷平八郎が赴任した、京都府舞鶴市広島県呉市が発祥地バトルを起こしましたが、現在は共に「肉じゃが発祥の地」として観光PRしています。

 

※諸説あり

【都市伝説・日本史】実は卑弥呼は天照大神だった?

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邪馬台国のTOPである卑弥呼古事記日本書紀に記載されている天照大神では?と考えられるようになりました。

実際、謎多き邪馬台国。所在地についても、奈良、九州北部、宮崎など様々説があり、実際のところははっきりと分かっていません。また、古事記も日本の神話とされていますが、信憑性も確認されていないとされています。

 

では、卑弥呼天照大神だったと言われるのか?

近年様々な研究がされていますが、以下の理由から、可能性が高まったとされています。

 

【理由①】

卑弥呼の姿を殆どの人が見たことがなかったことから、存在自体が神として扱われていたのではないか?

【理由②】

卑弥呼は中国の歴史書にしか記載がなく、実際、「ヒミコ」と読むかどうかも定かではありません。逆に、ヒミコという読みが正しい場合、漢字は「日巫女」と書くのが正しい可能性があります。つまり、卑弥呼→日巫女=太陽の神と考えることができる。

【理由③】

卑弥呼の死後、247年と248年に2年連続で九州地方にて皆既日食が発生。皆既日食は2年連続で起こることがないことから、古事記に記載されている天照大神の「天岩戸」の話を現わしているのでは?

 

※諸説あり

【都市伝説・日本史】島原の乱の天草四郎は豊臣秀吉の孫だった?

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1637年に長崎県島原で起きた島原の乱の首謀者とされる当時16歳の若さだった天草四郎。実は、豊臣秀吉の孫、豊臣秀頼の息子だったとされる都市伝説があります。

 

この都市伝説の背景には、豊臣秀吉の次男・豊臣秀頼の生伝説があります。

豊臣秀頼は、1615年、大坂の陣で徳川軍に追い詰められ、母・淀殿と共に自害したとされています。

ところが、秀頼、淀殿の最後を看取った者もなく、死体も残っていないことから、島津氏を頼り薩摩国へ逃げたのでは?という説が浮上しました。

当時の民衆の間で

花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたよ鹿児島へ

と歌われています。

 

なぜ、天草四郎豊臣秀頼の子と言われているのか?

 

下記の様々な理由の合わせ技から、天草四郎豊臣秀頼の子では?と言われています。

【理由①】

天草四郎の馬印が豊臣秀頼と同じひょうたんだったこと。

【理由②】

農民とキリシタンが起こした一揆(3万7,000人)に対し、徳川軍(12万人)と尋常ではない兵を送り、執拗に攻めたことから、徳川軍は天草四郎を絶命させておかなければならない理由があったのでは?と言われています。

【理由③】

ある書物に、天草四郎のことを豊臣秀綱と記載されていたこと。

(これは信憑性の乏しい)


豊臣秀頼天草四郎、共に非業の死をとげたことから、同情の念を背景に、おやこだったらいいな~という夢も背景に、この都市伝説が生まれたとされています。

 

※諸説あり

【都市伝説・日本史】チンギス・ハンは源平合戦の功労者、牛若丸こと源義経だった?

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モンゴル帝国初代皇帝として、現在のモンゴル、ロシア全域を統治したチンギスハン。実はこのチンギスハンは源義経がモンゴルに渡ってチンギスハンを名乗り初代皇帝になったと言われる都市伝説があります。

 

源平合戦で活躍した源義経は、頼朝の許可なく朝廷から官位を受けたことで源頼朝から嫉妬・妬みを買い、源頼朝と対立することとなりました。

鎌倉に入ることを許されなかった源義経は、幼少の期にお世話になった奥州藤原氏を頼ることにしたが、源頼朝の圧力に屈した奥州藤原氏の裏切りに合い、衣川館で妻子と共に自害したとされています。

 

ところが、源義経は実際には自害しておらず、蝦夷(現在の北海道)に逃れ、対話陸に渡ってモンゴル帝国を作ったという都市伝説があります。

 

この説を最初に唱えたのはドイツ人医師のシーボルトシーボルトの著書「日本」の中で、源義経=チンギスハンと結論付けています。

 

シーボルトの主張

源義経が自害したとされる時期からチンギスハンが歴史に突如現れている。

②チンギスハンの得意としていた長弓は日本独自の武器で、元々モンゴルにはなかった。

③チンギスハンの「ハン」は遊牧民の君主が名乗る称号で、日本の朝廷の役職名「官(カン)」に由来しているとの主張

 

その他、牧師であり、アイヌ民族研究家であった小谷部全一郎(おやべぜんいちろう)も著書「成吉思汗八源君物語」の中で、源義経=チンギスハンと結論付けています。

 

小谷部全一郎の主張

①日本語とモンゴル語、顔立ちが似ている

②チンギスハンは「ニロン族」出身。この「ニロン」は日本を指している

③チンギスハンの別名は「クロー」。クローは義経の官職だった九郎判官から名付けられた。

 

【おまけ】

判官びいき(ほうがんびいき)という言葉があります。弱いものに同情し、応援することを指しますが、この言葉は、源義経が朝廷から任命された官位が九郎判官だったことが由来とされています。

 

※諸説あり